ゆこの机の上と本棚

机の上に積んである本たちと日記

舞台

現代版人間失格


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私は太宰治が苦手。その中でも人間失格が一番避けて通りたい。教養として一応読んだことはあるけど。

もしこの主人公が自分自身を演じて、ただ壊れていくだけなら、本当にこれは人間失格と同じ内容になっていた気がする。

演じることに優越感と劣等感を感じ、けれど彼岸からその“演技”を見る視線を恐れる。誰にでも覚えのある経験だなと思った。

 

自分で自分を演じる瞬間は誰にだってある。それを見つめ続けておかしくなった主人公のはなし。

 

でもね、実際人なんてそこまで他人の事を見ていないよ。それが悔しいから何とかして人の視線を求めようとするんじゃないかなぁ。

“いまがいちばん”の謎

よく知ってる洋服屋さんのお姉さんに言われた

“今がいちばん楽しい時期だね~!”

今が終わったら楽しい時期が終わっちゃうの?それは嫌だなぁ、何かしら楽しい事をしないといけないのかなぁ。普通に毎日楽しいんだけどなぁ。

そんなことを思ったんだけど。ふと気付いた、同じ事昔からずーっと言われてきたなと。

10代後半、大学でもがいてた。それはそれで毎日必死だったし、辛いこともあったけど楽しかった。

20代前半、仕事を始めた頃。仕事が上手く出来なくて仲間も作れなくて辛い時もあった、でも独り暮らしの楽しさとか色んな人とお付き合いしたりして楽しかった。

20代後半、仕事で信頼してもらえる立場になった。人を管理して支える立場になる難しさと嬉しさがあった。色々安定をして来て、やっと大人になった気がした。

30になった。ポジティブに人生の中で捨てるべき部分が見えてきた。健康で仕事もあってやりたい事もなんとなく見えてきて、幸せだと思う。

 

今が終っても幸せであるように、努力だけは続けていこうと思う。人を大切にして、自分も大切にして。生きていこうと思う。

 

うつくしい人

美しい人とは

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自分自身から逃げ出した女の話

“美しいの基準”は色々ある。人によって各々だし、基準が歪んでいる人もいる。そもそも正しい“美しい基準”も一体何なのかと思う。自分自身への基準、他人への基準、そればかりを思いながら生きるのは辛いけれど、自分が社会から外れていないか否かを思う時にはある程度の基準が必要になる。その上で、その基準に見合う事をを本心から考えてしまう人は辛いだろう。人はみんな各々基準を心の表に掲げつつも、裏で自分の信念に沿って生きている。

それなら、その信念っていつ生まれるの?どうやってその作り方を習うの?生き方の中で体に覚えさせていくしかないのだと思う。

本の題材として頻繁に何かから逃げる為に旅に出るけど、旅に出れば必然的に自分と向き合う事になる。結果的にそれは良いことだけど、使い古された手法だなぁと思ってしまう。

私も目的もなく旅に出れば、無自覚の自分を見つけられるのだろうか。それとも、現実に逃げ帰りたくなるのだろうか。

 

 

どうにか こうにか ワシントン

阿川さんの海外生活のいちねん。


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格好良い大人の女性とはこういうものだと思う。完璧すぎてもおもしろくない、抜けすぎていてもいけない。私にとってちょうど良い所にいるのが阿川さん。

どたばたしながら好きなことをする程楽しいことはないと思う。きっと楽しくないことや好きじゃないこともあったと思うけど、それも含めて魅力的な人生を送られているなぁと本当に思わせてくれる。

魅力的な人生ってなんだろう。自分で言っていて思ってしまった。

私も1年くらいなににも縛られずに暮らしてみたい。でも、なににも縛られない孤独や不安はきっと底知れなくて、それを怖いと思ってしまうからきっとむいていない。

それでも憧れるくらいは良いと思う。

天才はあきらめた

山ちゃんの黒歴史


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私はお笑いに関する事が結構苦手。お笑い番組が始まるとチャンネルを変える。変えられない状況なら、その部屋から出ていく。びっくりされるほど芸人さんの名前もわからない。これは全部大人になってからだ。

それは置いておいて、まず芸人さんたちがどんな風にしてステイタスを勝ち取っていくのか。あと、挫折や憎しみがここまでガソリンになる人間が私以外にも結構居るんだというのが発見だった。

山ちゃんのすごいところは、少し的はずれだったとしても自己分析が出来ているところだと思う。見習おう。

 

蹴飛ばされたら、辛くてもその事を忘れなくていい。いつか崖の上にから蹴飛ばしてやろう。舐めて掛かられたら、次あった時にその相手よりも上にいればいい。そうやってこれからも生きていこうと思う。

火天の城

利休にたずねよを読んだ時に、この人の描写力はすごいなと思い興味を持った作家さんの作品。時代小説はあまり読まないんだけど、時代小説ってみんなこんななの?


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古城はただの入れ物ではない。住む人間にはこだわりと目的があって、それを理解した作り手が技術と経験でそれを叶える。なにかひとつが足りていなくてもいけない、大きく繊細な仕事だと知った。

伊勢に奉納する予定であった御神木を伐採し築城に使うシーンがある。御神木が信長の西洋風の安土城に利用され結末を迎えるのは宿命だったような気がした。また、素晴らしいデザインであるという前提で話が進んでいたが、西洋人の前では、日本の西洋風の安土城は悪趣味であると言われ切なかった。

石には龍が住んでいる。石にも木にも神様が宿っているという描写は、日本独特の神様への敬意を感じた。

心で城を建てると自負するのは、多くの築城の経験の中で培ってきた思いや、成功、失敗、から来るのだと思った。

心を尽くせば何事も成功するわけではない。けれど、心を尽くさなければ完璧を越えた仕事は出来ないと思う。

 

深夜特急3 インド·ネパール

深夜特急折り返し地点


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私はインドに行ったことがない、インド料理屋でもスプーンでカレーを食べる。トイレでも紙を使う。どんな国でもその国のイメージがあると思うが、そのギャップが1番大きい国がインドだと思う。

心優しい人でもカーストに則り人を蹴る、聖職者であってもパンを恵まない、それらは全てその土地の規則を守るための行為である。だからこそ、そこに住む人間でなければ理解しきれないし、それを“ひどい”と口にする事こそおかしい。

それと、これつねさんの事で思うことがある。私は大学生のときカンボジアにボランティアの真似事をしに行った。その時にも似たようなことを感じたのだが、能力がない人間が増えたところで何もならない。何かを与えたいだとか、教えたい、と思うのであれば、それのプロくらいになってから出直すべきだ。そうでなければお金だけ送るだけで十分。

これつねさんがそうだと言うわけではない。これは私自身への自戒でもあって、人に何かを教える立場に立ちたいのであれば、中途半端な状態でいてはいけないと思っている。“いや、子供たちにとっては良い経験になる”と、人は言ってくれるかもしれない。けれど、それを教える人間が言ってしまったらおしまいだと思う。